私自身が鬱病です。
鬱病といっても種類があり、私の場合は躁鬱病にあたります。
診断を受けたのは高校生の時でした。
まだ人間関係も狭く、自分から人になにかを打ち明けることなどありませんでした。
たとえ家族でも。
打ち明けたらなにか変わってしまうのではないのかとびくびくしてました。
でも本当はなにもかも変わってしまいたかったです。
躁鬱病、という診断を受けて一番はじめに浮かんだものは安堵、でした。
私はなにも知らない得体の知らないものとたたかうより、
ちゃんと病名がわかったうえでの方が生活がしやすくなりました。
私はこういう病気だということ、また少しずつ治していける余地がまだあるということ。
ただ、なんでもかんでも病気のせいにはしたくありませんでした。
わたしがアルバイトを始めたときもバイト先の人に病気のことを言おうか迷いました。
が、結果的には言わずに後々迷惑をかけ最悪な形でそのバイト先を辞めてしまいました。
その時のことですが、「もっと早く病気のこと言ってくれれば良かったのに」と言われました。
病気のことを理由に逃げたくない、のと同時に恥ずかしさもありました。
わたしはこんなこともできない、周りの人とこんなにも差がついてしまっている。
そのことを悟られるのが怖かったです。
ですが、冷静に雇う立場の人のことを考えたら隠されるよりも打ち明けられる方が対処のしようもある。
それに隠した方が逆に迷惑になる。
お金をもらっている以上、それなりの責任を負わなければならないが、かえって我慢をし、
後々仕事場で癇癪を起こし、従業員だけでなく、お客様まで巻き込むのは自分でもどうかと思いました。
そのことで考えを改めようと思いました。
接し方について、鬱病には波があり調子の良い時、悪い時。
悪い時はなんの前触れもなく訪れます。
わたしの場合、つい数分までテレビを見てわらっていたのに、
なにかの拍子に心がざわつき始め、糸が弾きれたように波が押し寄せます。
ジェットコースター状態です。
精神面が良い時も悪い時も、声をかけてくれるとやはり安心します。
1人じゃないんだということ、側にいてくれているということ。
言葉にはあまり出せませんが、家族にはありがとう、と何回言っても多分足りないくらい迷惑をかけました。
理解してくれる人の存在はとてもとても大きいです。
たとえ苦しくて胸がはちきれそうに痛い時もただそこにいてくれるだけで救われた存在になります。
それはどんな人でも同じように思うことだと思います。